昭和46年2月14日 朝の御理解


 御理解第36節『日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を要れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に明け暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる』


 ここの御理解を頂いて、なるほどそうだなぁと思います。こうして皆さん、朝参りをなさられる皆さんの場合、「あらゆる神を、みな信心する」といったようなことは、あら、そういう人はおられませんと思います。もう金光様一本に固まっておられる方ばっかりだと思いますよね。
 ですから、今日はその、「草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげを受けられる」というところ。
 例えば金光様のご信心頂いておりましてもね、例えばなるほど、教えをいろいろに頂きまして、あらゆる角度からお道の信心を分からしてもらう。言わば、非常に詳しくなる。いかに詳しくなりましてもね、その、「これが私の信心の、言わば筋金だ」というような、その筋金が通ってない信心をしてもですね、それは、日本国中のあらゆる神を信心しておると同じことだと思いますね。ね。( ? )
 だから、もう金光様のご信心は、もうこれだと、もうこれに極まったと。まあ、だんだん信心の稽古をさせて頂いておる内にです、そこのところがだんだん分かってくるね、はっきり。だから、その事がいよいよ、成就することのために、そのことに専念さしてもらう。そのことの為の、その信心を進めて行くことの為の全てだ、ということになるんです。そのことを進めて行くことの為の、まあ言わば教えだと言うてもいいわけです。ね。
 例えば「日本国中のあらゆる神を、みな信心する」ということは、ね、そんなことだと思う。ね。いわゆる教典一冊、百六十何節という御教えがありますが。その一つ一つをですね、まる覚えさせて頂いておりましても、それがこう、ね、ただ浅いものであってはね、私は一心ということにはならない。「草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐにおかげが受けられる」ということにならない。
 私昨日、十三日会の共励会で、様々な有り難い信心が共励されました。中で最後に皆さんが、一言ずつ、まあそういうわけではなかったですけれども、まあその人の信心の一番焦点にしておられるもの。ね。それがその人の信心の中心をなすもの。貫いて行こうとし、また、貫いておられるものをそれぞれ聞かせて頂いて、もうほとほとと感心いたしました。
 まあ昨日はそれを発表された方が、ほんとにその事に取り組んでおられるから、もう聞き入る者皆が、「なるほどそうだそうだ」と、まあ合点されたことだと思うんです。その事に取り組んでおられる方達が発表したからなんですそれは。
 今日の御理解でいうとですね、もうあらゆる御教えを、と言うのじゃなくて、「もうお道の信心はこれに極まった」といったようなものをね、そのひとつに焦点を置いて、本気でその事に取り組んでおられる人達が、それを発表されましたから、もう実にその、「あの人は口ばっかりであるようなこと言いよる」といったようなものがなくて、「そうだ」と、皆思わせて頂くものを、私ども感じ取らせて頂いた。
 で、皆さんの場合どうでしょうか。私はね、それができていないと思うですね。何十年合楽にお参りしよるばってん、さあ、あなたは、もうこの信心で行きなさいと。いや、自分でこの信心で行こう、というふうに定めてない。ただ何十年お参りしよるというだけと。いわゆる、一心というものを貫いていない。なるほどそれではね、いわゆる神様の拠りどころがないということになるです。心の中に信心の棟梁というものが定まっていない。だから、「ああでもなかろうか、こうでもなかろうか」と迷わなければならん。
 私はほんとうに、それを昨日思てね、皆さんの者が一人一人です、ね。これだというものをですね、あの、心の中に頂き抜いておったらです、どんな場合に直面しても、私は、迷わんで済むのじゃないかと思う。答えはすぐ出てくると思う。
 私の心の中に、特に印象深く残った、幾人かの方の例を言うてみましょうかね。ですから皆さんも、それを聞かれながら、「はあ、あの人ならそうじゃろう」と思われることばっかりなんです。だから、それにお互いがならなければいかん。一心と定めなければ。何十年、何人、何年信心を続けてもです、ね。「あんたの心の中にシャンとしとる、なんか筋金が通っておるものは何か」と言われても、ただ漠然としておる。ここでの信心は長い。詳しくはある。けれどもそれではね、一心を貫くということにはならん。
 「草木でも芯というたら一つじゃ」と。いわゆる草木の芯のようにです、私どもの信心に、その芯をなすものがなからなきゃいけん。言うならば、それの一点張りだからいいのだ。その一つをね、あらゆる御教えは、いよいよほんとなものに仕上げて下さることの為の全て教えである、というふうに頂いても良い。
 伊万里の竹内先生が一言「もう信心は、有り難くならせて頂く稽古だと心に定めております」とこう言われました。どうでしょうか。ね。実際(   ?   )有り難くないことがありますよたくさん。けれども、有り難くない時には、自分の信心の方が間違うとるというんだと、どうでもこうでも、その様々な問題の中からです、答えを有り難いものにして行くことの精進なんです。ね。これはもう、竹内先生の、にして言われることなんです。それに取り組んでおられるから言えれるんです。
 後もまあ、咄嗟なことですから、なかなかお話ができません、というようなこと言っとられましたが、もう一言でいい、極まっておる、と私は思うたです。どうでしょうか。毎日毎日様々起きて来る全ての問題をですね、有り難いという答えの出るところまで、煎じ詰めて行こうというのですから。
 「はあ、今朝御理解では、あのようなふうに御理解を頂いた」と、なら今朝の御理解を、ね、心の中に頂いて、そしてそれを言わば、参考にいよいよ有り難うならして頂く。その問題を有り難く、という答えのでるところまで進めていくという。
 合楽の田中さんが発表しておられました。ね。
もう最近はね、日々、自分の心の中に、いわゆる「和賀心」和らぎ賀ぶ心。これを求め続けております。でけない時には、御神前にお供えしてある、神床にお供えしてある黒い糸をひとつ巻くことにしとります。今日はでけたという時には、赤い糸を巻かせて頂きます。その赤い糸が大きくなっていくこと楽しみに、信心を進めておる」ということ言うておられます。素晴らしいです。それをほんとうに、それを、それに、そのひとつに取り組んでおられるということ。
 私は、今日はもうほんとに、でない方達はですね、もうほんとに穴があるなら入りたいごたる思いをしなきゃいけませんね、今日は。そして、ほんとに自分もその事にひとつ、長年の信心をしとるのですから。ね。もう一つぐらい「はあ、この信心はこれだ」と思うたことをですね、そうして日々、私はそれに取り組んで行かなければ。ね。
 筒居の清志さんが発表しておられました。ね。毎日、朝参りをさして頂いております。たくさんの人を乗せて来る。もうどんなに遅かっても、まあ、必ずお参りになる。感心だと、まあ皆が言うけれども、「実は、そのことはもう、私は当たり前の事といたしております」とこう言うた。それが、ほんとに清志さんが言うておられるのを聞いておるとですね、ほんと清志さんは、それはもう当たり前と思とりなさるじゃろうと思います、あの人の信心ぶりから見て。どうでしょう。
 いつからいつまで朝参りを続けるといったようなもんじゃないのです。もう金光様のご信心をさして頂いて、もう朝参りっていうのはね、もう修行じゃない、もう当たり前の事だと言うておられる。
 それが、自分一人が、それをもし続けるということになると、もう、自動車に、あそこ、あちらの自動車に乗ってこられる皆の人が、ご無礼をなさることになるから、ね。いろんな御用で、教会から夜中に帰られることもある。けれどもやっぱり、ちゃんと朝の御祈念にはお参りして来とるです。ね。「もうそのことはね、どうとは思いません。当たり前の事として」と言うておられます。
 そしてです、昨日神様に頂いた御教えと言うか、これは、つみさんがご自身で頂いておられる。「いよいよ大きな信心を目指します」と言うておられる。ね。その大きな信心とは、もう結局、「馬鹿とあほうになることだ」と極めたことを神様から頂いておられます。なるほど、つみさんならできなさるじゃろうという感じがいたします。ね。
 いよいよ大きな信心を目指すと、「大きな信心大きな信心」と言うけれども、どういうことが大きな信心なのかと。神様からお知らせを頂いた、忘我になれと。忘我ということは、馬鹿とあほうだというふうに頂いて、ね。いよいよその大きな信心を、いう大きな信心に育てて行こうと、まあ意欲しておられるわけであります。ね。
 つみさんは、感心に、毎朝毎朝、昨日あんなに遅かったのに、また、朝もこうしてお参りしておられる。「いいえ、それはもう当然、当たり前のこと。金光様のご信心を頂くなら、もうそのことは、特別なこととは思うとらん、修行とは思うとらん」というそこが素晴らしいですね。
 佐田のおばあちゃんが発表しておられました。「これは、先月の寒中修行一月の間に、体験さして頂いたことですが、ね。これは修行中だけではない、これからも私の信心を、信心が、その事に焦点を置かれることであろう」という意味のことを言っておられる。それは、人を責めないということ。その事に焦点を置かせて頂いたら、自分自身が、ね、助かっておるのに、びっくりするほど気が付いておられます。人を責めないということが、自分自身が助かる事だということ。責めんで済むということは。
 「あんたどうして」これを言わないというのですよ。もう素晴らしい素晴らしい、もう一人一人の話聞かせて頂きながらね、ほんとにそれに取り組んでおられる人達の言葉だから素晴らしかったんです。
 どうでしょう、これだけたくさんの皆さんの中に、もう何十年信心のさせて頂いておるけれども、そうに合楽で御理解頂いておるけれども。この一言すらが、まだできとらん人がたくさんありゃしませんか。
 文男先生が発表しておりました。ね。「もし親先生が、ここにね、どういう高い例えば着物でも、これはいいな、これは欲しいと思われたらね、もう絶対、それを私はおかげを頂くことに決めとります」と言う。まあ、それはどうかというと、甘木の総代さんの(青井?)さんの先日の言葉を引用して自分で言うております。
 先生が、文男さんというて呼ばれたらね、もう絶対それに応える、という姿勢をとっておると言うております。それも、私の身でかなうことならば、絶対親先生が言いなさったことには、私は服従するとこう言う。
 これなんか、まあ事実、本人がそれを実行しておるから、その言うておることが素晴らしく聞こえるのです。「はあ、先生が、あれが欲しいっち思いござるばってんが」というようなズルイことをいっちょん言うとらんとに、先生の欲しいなぁと思とるとを、自分が気が付いたら、自分の身でかなうことならば、それに応えようというわけなんです。ね。私の根にかなうことなら、私の力にかなうことならば、ね。それに応えさして頂くという、私は姿勢をとっておると、自分の信心姿勢というものを言っております。
 高橋さんが、ここんところ、ちょうど十日間断食修行なさいました。ね。いわゆる表行なんです。私は、その高橋さんのお話聞かせて頂きながら、ほんとに信心は悟りだなぁと思いましたね。
 信心は悟りです。今、ずっと皆さんに申しましたことなんかはですね、もう翻然として「もう信心はここに極まった」というふうに悟っておられるのですよ皆さんが。だからそれを長年続けておられ、また、最近気付いた事は、その気付いた事に本気で取り組んでおられるのですよ。信心がだから、詳しゅうなるだけじゃいけんちゅうことが分かります。ね。
 いわゆるほんとの、いわゆる断食ということ、修行ですから、これは表行ですけれど、ね。「表行よりは心行をせよ」と教祖は仰っておられるけれどもです、ね。もう「表行は即心行だ」と昨日言っております。私は、それを聞いて、もうほんとに行にも移らなければ、できることじゃなか、分かることじゃないと思いました。
 いかにも断食修行っていうことは表行ですけれどもです、その表行をしておるうちにですね、もう心行は絶対伴うものだということ。「表行をできなければこげな心行はできない」ということを悟った。だから、もう表行でもなからなければ、心行でもない。と表行と心行の差別というものを感じない、ということを発表しておりましたしね。してみると、ほんとにひとつ、表行からでも取り組まなければならないことが分かりますよ。
 それはほんと、断食でもさして頂きますとですね、もう心はさあっと落ち着きますし、頭の中は澄みきってきますしね。もう小さい事でも自分を見つめる、見極めるといったような心が、いつもより必ずできるんです。ですからもう、すでにそれはもう心行です。
 何十年信心しよるばってん、まあだ断食一遍もした事なか、ちゅうた人もたくさんあろうと思うですね。ひとつ思い立って下さい。もう必ず心行に繋がるところまでひとつ、表行をなさったらいいと思うですね。表行。もうほんとに表行も素晴らしい、そういうことになってまいりますと。
 最後に、日田の綾部さんが発表しておられました。これは、これからの願い、とまあいうことでござましょう。「もうほんとに、皆さんのあまりに素晴らしいお話を頂いて、もうほとほと感心しました」ということを、まあ開口一番にねぎらいながら、「これからの自分の信心姿勢」というものをね、発表しておられます。
 先日からご自身が頂かれた御理解の中に、★「薪を燃やさず炭をおこせ」という御理解を頂かれた。何日間かそのことに取り組んでみた。本気で、「これはだいたいどういうことであろうか」と思うて、一生懸命練られた。そこから、御理解にいろいろとヒントを受けられて、分かられて、分からして頂いて、「これからの私の信心姿勢はこれだ」とまあ、極めて行こうというわけなのです。ね。
 まあそれを、御教えをもって言うとです、ね。「我情我欲をはなれよ」と言うのです。そこからね、我が身がなるほど、神徳の中に生かされてある喜びを体験していけれるんだと。ね。自分が「ああしたがええ、こうしたがええ」と思うけれども、そういう思いをまず捨てよう。そして、そこに神様任せの一心を出して行こう。ね。そういう、これからの信心を進めて、いよいよ、いわゆる薪ということは、いわゆる「割り木」ということにもなる。焚き物の意味です。ね。
 これは、「自分がこうしたいと思いますから、神様どうぞよろしくお願いします」こういう生き方こそが、まあほとんどですよね。例えば「どこどこに集金に行きたいと思います。どうぞ神様よろしゅうお願いいたします」とこういうわけなんです。だから、自分が集金に行くとに、神様をお供に連れていきよるような生き方なんですね、普通一般の人は。そうでしょうが。「今日は久留米に集金に行きますから、神様あなた付いて来て下さい」と言うようなもんです。ね。
 だから、それでもいいです。神様は付いて来て下さる、おかげ下さる。ね。「これにですから、こうお願いします」と言えば、おかげ下さるけれども、そういう思いを捨ててです、神様を中心にした考え、自分の我情、自分の思いというものを、は自分の我情だと分からして頂いて、そして、神様が右と仰るなら、右の方へ行こうというのですから。神様お出でる後から、自分がお供をして行こうという生き方なんです。ね。
 今まではね、「神様どこどこに行きますけんお願いします」と言うて、神様をお供にして行くような生き方であった生き方をです、これからは、「神様のお供をさして頂こう。神様がお出でるところへ付いて行こう」という生き方に改めていこうと言っておられるわけです。それがいわゆる、薪を燃やすということではなくて、いよいよいわゆる炭をおこそうと。炭ということは真っ黒、真っ黒ということは、まあこりゃ真っ黒、黒い、「苦労」ということ。「修行」ということ。そこに、修行に一点に絞ろうと。ね。しかもその炭を、言わば、いつも大きな火鉢にぐるぐるおこしとこう、とこういうのである。
 言うなら、綾部商店にお客さんだけではない、お付き合いの人も集まってくるであろう。そしてそこに、大きな火鉢に、言わば炭がぐるぐるおこっとるなら、「はあ」と言うて、その火鉢の側に集まって来るだろう。ね。
 その人達に一生懸命、言うならば、信心の話でもさせて頂こう。番頭さんがどこに酒を配達に行った、番頭さんがどこに商用で行った。もうその後から、一生懸命後ろ祈念をさせて頂こう。いや、行き先のお得意さんのことまでもお繰り合わせを願おう。これはもう、御祈念係にならせて頂いたら、とても暇のだんじゃなか、もういつも神様の前に座って御祈念しとらんなんことになるだろう、というのである。ね。そういうことになられたら、どんなに信心が楽しいことになるだろう。いや、有り難いことになるだろう。いや、神様の願いが、ね、そこに成就して行くことの有り難さというものを体験する事であろう。
 そこに、なるほど「我が身は神徳の中に生かされてあるんだなぁ」という、いわゆる我情我欲をはなれていく姿勢をここにとろう、というわけなのです。ね。まあだ私には若さがある。だからもう、実を言うたら、番頭達には任しておられない。それで私が第一線に立って、商売でもさして頂こうかと思うたけれど、ね、「そういうことよりか綾部さん、薪を燃やさず炭をおこした方がよかですよ」と言われて、その事に取り組もうという姿勢を作ったという意味の事を、昨日話しておられました。これはまだ実行しておるというのじゃない。そういう姿勢を作ったというのです。
 どうぞひとつ皆さん、これはね、まあだありますよ。もしこの、昨日、佐田さんや久富さんに、発表して下さいと、て言うておったら、繁雄さんが、「もう信心は素直になる以外にありませんっち仰ったじゃろう」と言うて、後から話したことでした。もうこれ一点張り。もうこれ一つ。もうそれこそ、素直にて、雲の上まで昇る道があることを、だんだん体験して行きよりなさるからです、ご本人が。
 というようにですね、「こう」ということじゃない、それぞれの信心のですね、進め方というものは、一人一人違っていいのです。例えばこれば北野の中村さんに言うならばです、「もう親先生、信心とは、ね、くよくよしないことです」と、「一切を喜びで受けていくことです」と、ね。「『中村喜久世』と、あの御理解を頂いた時に、ね。喜びをなくしたら、後は残るのは『くよくよ』ばっかり。もう先生、私はこれに極めております」と言うて、まあ発表されたであろうと思うのです。まだこれは発表されたわけじゃないですよ。
 繁雄さんの場合もそうですよ。と言われるじゃろうというて、後で話したことなんです。いわゆる、皆さんのね、それこそ「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりもの信心じゃ」とここに言うておられるように、なら皆さんの場合、どこさんにも参る、ここにも参るというようなこと、ありよると思いません。やはり、もう合楽一つに決めてある。
 けれどもね、合楽にお参りしよるからと言うてです、ね。この御教えもかじったばっかり、この御教えもただ知っておるだけ、といったようなことじゃいけんということ。ね。いわゆる「この方一心と定める」ということがです、もうこの御教え一つに絞って行くという一心を出す。「草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐにおかげが受けられる」ということ。ね。
 だから、今聞いて頂いた幾人かの方達のです、信心がね、これは私はほんとに、ここに、あの、今日私お話しました人達、ほんとにそれに取り組んでおる人達でしたから、昨日は素晴らしい聞こえたんです。んなら私は、何に取り組んである。どの御教えに取り組んであるだろうかと、ひとつ皆さん思うてみてですね、皆さんの信心が漠然としておるとするならです、ここに一つにまとめなければいけません。ね。
 「これはもう私の専売特許」と言われるようなものがなからなきゃいけません。信心は。ね。それが私は、「草木でも芯というたら一つじゃ」という、神信心もこの、この一心を出すと、すぐにおかげが受けられるということ。すぐにおかげがということは、すぐに御利益が受けられるという意味ではなくてで、ね。佐田のおばあちゃんじゃないけれども、「もう人を責めない」とこう定めさせて頂いたら、ね。自分自身が助かるということ、助かっておるということに気が付いた。それが、もうすぐに救われておられるということなのですよ。ね。
 ですから、そういう心にまた、御利益は嫌と言うても付いてくるのは、これはもう当たり前です。「すぐにおかげが受けられる」とは、そういうことだというふうに思います。ね。
 あちらの仏様、こちらの神様というて、拝み散らかすといったような人はありません。ここにこれだけたくさんおりますけれど。それを私は知っております。ね。ですから今日は、ここんところをです、自分の心の中にです、ね。漠然としたものであって、自分の心の中で一つの筋金になっておるようなものが、あるかいなかをもういっぺん確かめて、それをいよいよ、私は、極めて行くおかげを頂きたいというふうに思うのでございます。どうぞ。


明渡 孝